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善き人のためのソナタ/hackerのコメント

rating44.5000

善き人のためのソナタへのコメント

採点

rating5

推薦数

+1

コメント

20世紀は、共産主義の登場と共に始まり、その崩壊と共に幕を閉じました。

ネタバレ

このレビューは物語の核心部分が明かされています。

レビュー

ナイーブだなと思いつつも、個人的にいつも疑問に感じるのは、本来共産主義というものは、社会の平等を大原則に掲げていたにもかかわらず、旧ソ連邦や現北朝鮮を見ていると、現実に起こっていたことは、むしろそれと正反対であったということです。理念は素晴らしく、美しいものであったにもかかわらず、何故こうなってしまった、若しくは、何故こうなってしまうのでしょうか。その答えは、私には分かりませんが、そうした「美しい社会主義」を「死に行く美しい母親」に象徴させ、完全な虚構の中に置いて、現実とのギャップの苦さを描きだした作品が『グッバイ、レーニン!』だったわけですが、この映画は、過去に実際に起こっていたことを題材に描いて、「美しい社会主義」という虚像への決別を宣言した作品です。

一見、全く別のアプローチのようですし、実際この映画の監督は『グッバイ、レーニン!』へ批判的なのですが、共通項として挙げられるのは、「美しい社会主義」という虚像が、もちろん国家権力の中には「悪人」も多々いたでしょうが、多くの「善き人」によって支えられていた、という事実を描いている点です。『グッバイ、レーニン!』に登場する、熱心な社会主義者である母親が「善き人」であったことは疑いもありませんし、この作品の冒頭では冷酷非情に見えるヴィスラー監視役は、「美しい社会主義」の信奉者であって、それを守るために与えられた職務を忠実に実行しているだけの、本当は「善き人」であることは、物語が進むにつれて、分かってくるのです。

物語を簡単に説明すると、西側思想の持ち主との疑いのある劇作家ドライマン(実際には、文化大臣が彼の恋人クリスタに横恋慕していたのが大きい理由なのですが)の、部屋に仕掛けた盗聴器から監視を行っていた、シュタージ(国家保安省)の局員ヴィースラーが、彼の生活を覗いているうちに、次第に彼に感化されていき、ついには彼の「反国家的活動」を黙認するにいたる、というものです。ただ、この映画の一番優れている点となると、ベルリンの壁崩壊後、統一ドイツになった後に、必ずしもそれが「理想の社会」ではなかったことをも暗示的に描いていることで、例えば、ドライマンの敬愛する演出家が芸術活動を制限されたがために、自殺するエピソードがあるのですが、西欧社会でも似たようなことはあるわけで、1947年に始まったハリウッドの赤狩りを例にとると、これによって自分の力を発揮できる場を失った映画人は少なくないのです。その中でも、1969年に『夕陽に向かって走れ』という傑作を撮ったエイブラハム・ポロンスキーが、それ以前の20年間映画を撮れなかったことや、仕事を与えられなかったドルトン・トランボ(『ジョニーは戦場へ行った』の監督)が、長い間匿名で脚本を書いていたりしていたエピソードは有名ですが、実際には、多くの才能ある人間たちが、それを発揮できる機会すら与えられないで、消えていったのではないかと思います。これは、西側における思想弾圧の例ですが、資本主義社会である以上、思想以前にビジネスという大きな壁があることも事実で、この壁で苦労させられた代表的例がオースン・ウェルズなのですが、要するに、どのような体制であれ、芸術家が完全に自由に活動することなど難しく、特に映画や演劇のように、集団の力がないと成立しない分野では、それが顕著なのでしょう。

また、「国家権力に対する怒り」という標的を失ってしまったドライマンが、ドイツ統一後、書くことができなくなってしまうという設定も興味深いものがあります。例えば、ベトナム戦争の時代、いわゆるアメリカン・ニュー・シネマの時代に、何本か、場合によっては、たった一本の印象に残る作品を残して、第一線からは消えていった映画作家は少なくないのです。ジェリー・シャッツバーグ(『スケアクロウ』)、リチャード・C・サラフィアン(『バニシング・ポイント』)、フランク・ペリー(『泳ぐ人』)、イヴァン・パサー(『生き残るヤツ』)という名前をすぐに思いつきますが、彼らの多くは、やはり「怒り」が大きなエネルギー源であったかな、とも思うわけです。ベトナム戦争の終結と、アメリカの保守化に合わせて、そのエネルギーを失ってしまったのでしょうか。

ただし、本作品では、ドライマンは二つのことを知ったきっかけで、再び筆を取るようになります。一つは、自分が原因で死ぬことになったと思っていた恋人が、実際には自分を裏切っていたこと、もう一つは、自分が24時間監視下に置かれていたことがあり、監視人が国家に「忠誠」であったのならば、とても無事ではいられなかったことです。ついでながら、この恋人は、この映画の中で、弱さが前面に出ている、ある意味最も人間的な人物です。彼女は女優としての才能に自信が持てず、薬物依存症であり、それゆえ、大臣の理不尽な誘いも断固はねつけることができません。彼女が、恋人に「私が(地位を守るために)大臣と寝るのと、あなたが書きたいものを書かないでいるのと、同じじゃないの」と言う台詞は、胸に響きます。それは、我々も何らかの形で「体制」に妥協して生きていることを突かれるからで、それまでどちらかと言うと批判的に見ていた彼女の弱さと、自分自身の弱さが重なる瞬間だからです。

映画の最後で、ドライマンは新刊を出すのですが、ではそのエネルギーはどこから来たのでしょうか。やはり、それは、それまで全く知らなかった人間の、見返りを求めない善意の存在を知ったからでしょう。ドライマンの行動を黙殺し、彼を救うことで、「美しい社会主義」に忠誠に生きてきたヴィースラーは、それまで築き上げてきた地位を失い、ドイツ統一後も、復権などされません。それは、巨大な国家権力の中では、彼など復権などにも値しない、些末な存在であったからでしょうし、シュタージで活躍していた、ということだけで、本人がどういう人間であるかは無関係に、そういう可能性はゼロだったのであろうと思います。彼女の恋人の人間的な弱さを知る一方で、ヴィースラーの無償の行為、結果がどうなるかを考える前に取った善意の行動の存在を知ったことが、ドライマンに再び筆を取らせたのだと思います。

ヴィースラーのラストの台詞は、単純ですが、憎いです。ついでですが、ヴィースラーを演じたウルリッヒ・ミューエは先月胃がんのため没したそうです。見事な演技でした。ご冥福をお祈りいたします。

最後に、監督のフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクは、これが処女作だそうですが、実に見事な出来栄えで、感心してしまいましたが、難しいのは、むしろ第2作以降になるでしょう。「怒り」をもって、この作品を撮ったエネルギーが、これからも続くかどうかが、映画作家としての、これからの評価になっていくと思います。

評者

hacker

更新日時

2007年08月25日 11時22分

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