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そろばんずく/マーク・レスターのコメント

rating11.7500

そろばんずくへのコメント

採点

rating2

コメント

ポータブルDVDによる 車内鑑賞レビュー

通勤電車の中で、ポータブルDVDプレイヤーを使っての映画鑑賞にいそしんでいます。その日その日の、ストレートな印象を綴ってレビューとしています。

ネタバレ

このレビューは物語の核心部分が明かされています。

レビュー

9月10日(日) Vol.1 最終回の 1/2

観終わりました。第1回目からして、もはや最終回です。
しかし、前回(「ラスト・ショー」)と同じく、長い構成となってしまったために、2回に渡って掲載することとしました。最終回の第1回目です。

コメディアンによる痛快サラリーマン映画、という期待感から、植木等の60年代に制作された「無責任男シリーズ」が連想されました。そんなキッカケで、同じ傾向にあると思われる、この「そろばんずく」という映画は

《1980年代の「無責任男シリーズ」だった》 のか?

をテーマにして車内鑑賞を始めることにしてみました。結論から言うと、

“是”であり“否”

でもあったのです。

では、説明しやすい“否”の理由から述べてみたいと思います。でも、その前に何故、「無責任男」と今作を比べようと思い立ったかを説明すると、「そろばんずく」という語感とタイトル画像からの印象がその理由となっているのです。「そろばんずく」とは、

“損得勘定に長けた”

という意味で、卓越した営業センスで、そして主人公がコディアンであるため、口八丁、手八丁の調子の良さも手伝って、まるで「無責任男」のような爽快な出世モノが展開されるものと期待してしまったわけなのです。
そして旗を振り回して、挑発的にカメラに迫るタイトル画像を見れば、誰しも、外に向かって拡大していく瞬発力を期待してしまうのではないでしょうか?
僕は 《80年代に舞台を移した、「無責任男」》を見ることができるものと思っていたのに、結局はまんまと騙されてしまったわけで、今作は爽快な出世モノとは程遠い映画であったのです。

「無責任男」と「そろばんずく」を決定的に分けるものを考察すると、

‐緇沙峺の欠如
⊆詑寮の欠如

という2つの欠如が挙げられました。

 半緇沙峺”は、「無責任男シリーズ」が持つパワーの源 であり、無責任男はより良い環境を飽くなき探究心とチャレンジ精神で獲得していきますが、
(と断言していますが、そもそもは20年前の記憶を元にした印象ですので、悪しからず。)残念ながら「そろばんずく」には、上を狙ってのバイタリティは無く、現状維持の中での、突然の凋落。そして懸命の現状への復活があったのであり、個の拡大という図式はなく、物語上の会社組織の拡大があるという程度だったのです。しかも貪欲なまでの上昇志向は ライバルのラ社を牛耳る“天神さま”が振りかざす、“血縁による業務拡大”というアブノーマルなものとして、笑い飛ばされているのです。
そう、「そろばんずく」において、明確な“上昇志向”は、どこか控えるべきものとして避けられしまっているのです。この映画は、世渡り上手な成功モノという傾向を持ち得なかった点で「無責任男」とは距離を置く映画なのです。

⊆詑寮の欠如 とは、「そろばんずく」において、会社組織を森田芳光監督流のあそび感覚を導入しての、学校組織にイメージを重複させた象徴的な表し方となっているのです。その為、会社活動がリアリティに欠けた、バーチャルで実体を成さない社会活動との印象になってしまった点に代表されます。
(「無責任男」もリアリティの欠如は見受けられますが、バーチャルな虚無感は回避できていたと思うのです。)
「無責任男」が、その行動基盤を、あくまでも会社活動というリアリティの中における上昇志向に根ざしていたのに対し、「そろばんずく」は早々と会社組織からの離脱を余儀なくされ、“そば屋”や“清掃業”という仮の姿でライバル社の探りを入れることに終始してしまうのです。その為、その行動の基盤となる会社組織自体の存在感が希薄となり、彼らの行動自体が、いや、この映画の存在自体が薄っぺらい、リアリティに欠けたものとなっているのです。
この、絵空事で塗り潰された、悪い意味での“映画のフィクション性”に陥ってしまった点が「無責任男」と「そろばんずく」を深く隔てるものとなっているのです。

今作は《1980年代の「無責任男」だった》のか?
の鑑賞テーマに対しては、以上の2点によって、“否”との結論に達しました。が、次回は この2つの映画が制作された時代背景を考慮し、再考した結果、今作は《1980年代の「無責任男」だった》のかも! という視点でレビューを続けてまいります。お楽しみに。


9月16日(土) Vol.2 最終回の 2/2

前回、今作は《1980年代の「無責任男」》ではなかった。
と断言をしてしまいましたが、今回の「最終回の2/2」は、
今作は《1980年代の「無責任男」》だったのかも!
という視点でレビューを続けてまいります。

とは言っても、この2つの映画にはやっぱり大きな乖離があります。
そこで「60年代ー無責任男シリーズ」「80年代ーそろばんずく」という、この映画が制作された時代を考察した結果の、社会学的?なアプローチでお話を進めたいと思います。

「60年代ー無責任男シリーズ」

は1962年の「ニッポン無責任時代」から始まる映画群で、ちょうど池田内閣のもとで所得倍増計画による“高度経済成長期”という国家的高揚感に溢れた時代に制作されています。一方の

「80年代ーそろばんずく」

は“バブル景気”が始まったとされる1986年12月から遡ること4ケ月前の8月に公開。まさにバブル前夜に制作された映画だったのです。
“高度経済成長”と“バブル景気”、この似て非なる経済要因、社会構造のギャップが、まさに、この2つの映画を分かつ要因となっているのです。

「60年代ー無責任男シリーズー高度経済成長」

は経済基盤の底上げを伴う、国民全体が“豊かさ”という一つの目標に向けて一致団結していた、次期総裁候補が標榜する“美しい国 日本”がそこにはあったわけです。当然、個人レベルに留まらない、国全体の“上昇志向”が美徳とされ、その成果としての1968年、GNP世界第2位の獲得という歴史的事実があるのです。 一方の

「80年代ーそろばんずくーバブル景気」

は異常な投機熱に狂った、マネーゲームの様相を呈し、地上げに代表される、従来のコミュニティを崩壊させることなど、気にも留めない極端な拝金主義があったのです。この超利己主義的なゼニゲバ行為を恥じて、「そろばんずく」では敢えて、主人公達のこれ見よがしな“上昇志向”を避け、“天神さま”という悪役に一身に集約させたのではないか、とさえ思えてしまったのでした。
‐緇沙峺の欠如 という要因は、こんな 2つの社会の気運の差異いによってもたらされていたのではないかと思うのです。


⊆詑寮の欠如 は

「80年代ーそろばんずくーバブル景気」

が土地、マンション、高級車、果てはワインまでもを投機のネタとし、利便性や乗り心地、そして味というモノの本質や実体よりも、付加価値・資産価値という無形なものに群がった、実体の存在感が欠如した時代であると考えますが、

「60年代ー無責任男シリーズー高度経済成長」

は“三種の神器”に代表される“消費は美徳”の、物の豊かさを高らかに謳歌した時代でした。

記憶によると「60年代ー無責任男シリーズー高度経済成長」の無責任男はメーカーや商社等の、モノを製造・販売する会社の社員であったのに対し、「80年代ーそろばんずくーバブル景気」の二人は、実体以上の高い価値を生み出す為に、ハイセンスなイメージを創出する現代の錬金術師である広告代理店の社員であることが、非常に象徴的な対比に思えたのです。

「60年代ー無責任男シリーズー高度経済成長」

はモノの実体に直接的に恩恵を受けた時代で、主人公も、モノの製造や流通に関与していた、実体性が確かな世界であったのです。方や、

「80年代ーそろばんずくーバブル景気」

はモノの実体よりも、内在している付加価値・資産価値を偏愛した時代で、主人公達も価値観を誇張するイメージ創出を商いとしている、実体性よりもイメージ偏重の真っ只中にいるのです。
奇しくも、「バブル景気」を
“実体経済の経済成長以上に資産価値が上昇した状態であり、本来は維持できるものではなかった”
とそのバーチャルな好景気を断罪する文章を見つけました。

このように ⊆詑寮の欠如 も「60年代ー高度経済成長」と「80年代ーバブル景気」という2つの社会の差異が大きく関与していると思われます。


「60年代ー無責任男」の健康的な世界観を「80年代ーバブル景気」による

‐緇沙峺の欠如 を反動で叫びたくたくなるようなゼニケバ傾向、と
⊆詑寮の欠如 に見るイメージ偏重気運、

という歪んだ力で捻じ伏せた結果、この「そろばんずく」といういびつな世界(否、映画)が生まれきたのだと結論づけることにします。


今作は 《1980年代の「無責任男」》 とは成り得なかったが、
《1980年代というフィルターを通して生成された「無責任男」》 という側面においては“是”であったのです。

更新日時

2006年09月16日 23時53分

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